バタフライ

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バタフライといえば、プロレスファンなら蝶野でしょう。

水泳のバタフライについて。当時は平泳ぎの泳法規定は「うつぶせで、左右の手足の動きが対称的な泳法」と定められていました。
そこで1928年のアムステルダムオリンピックの開催時に、ドイツの「エーリッヒ=ラーデマッヒェル」が、現在のバタフライに似た手の掻きと平泳ぎの足の掻きを組み合わせた泳法で平泳ぎ競技に出場しました。
その後、1936年のベルリンオリンピックで数名の選手がこの泳法により好成績を収めると、1952年のヘルシンキオリンピックでは平泳ぎにおいて、ほとんどの選手がバタフライの手の掻きを用いるようになりました。
そこで国際水泳連盟は、1956年のメルボルンオリンピックから独立した種目として扱うようになったが、この時ある選手が膝を痛めて平泳ぎの足の掻きが出来なくなり、両足を上下に動かす現在の足の動き(ドルフィンキック)を考案しました。

凄い組み合わせ

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まだ新日とUWFの提携時に、若き日の高田が木戸と組んで、越中・橋本組とのタッグマッチに挑んだ試合ある。

これは凄い組み合わせだ。

後の事を考えると、鳥肌が立つ。

Uインターとして新日に参戦し、つぶされてしまった高田を考えると・・・・

高田と橋本がこの時期にぶつかっていたとは、今回初めて知った。

 

君主制

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君主が存在する国家を君主国、君主が存在しない国家を共和国という。君主国は通常、支配者の君主号によって、王国(王)、大公国(大公)、公国(公)、首長国(アミール)、帝国(皇帝)などと呼ばれる。かつて君主号には、個々の文化圏ごとの複雑な慣習に基づく序列や優劣が存在したが、現在は国際社会において儀礼上対等とされる。

一般的にその地位は、独りの人間が終身で持ち続け、その一族により世襲される。これを世襲君主制という。通常は、君主の一族を王家(王室)と呼び、王家による世襲権力の連続体を王朝という。バチカン市国のように、世襲によらない地位の継承が行われる例もある(選挙君主制)。また、マレーシアやサモアは任期制の君主国である。

エディゲレロ

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1992年に素顔で新日本プロレスに初来日。このときは、正統的な動きの中に切れのある空中技を披露し、天才レスラーと称えられた。また、この頃出会ったクリス・ベノワ、ディーン・マレンコとは生涯にわたって親友と呼び合う仲になり、その後も行動を共にしていく。同じ頃、CMLLでマスカラ・マヒカという覆面レスラーへの変身を命じられる。しかし自身の扱いに不満を持ち、新興のライバル団体AAAに電撃移籍、自らマスクを脱いで正体を明かしたルチャリブレ史上唯一の選手となった。AAAではトップ選手のエル・イホ・デル・サントと「ニュー・アトミック・ペア」を結成(初代アトミック・ペアは互いの実父であるエル・サント&ゴリー・ゲレロ)した。

その後、二代目ブラックタイガーとしての活躍も見事だった。

不器用だったハンセン

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日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。

サンマルチノ戦後の1977年新春より新日本プロレスと契約し、同年秋の2度目(来日は3度目)の参加からはシリーズエースとしてメイン級の働きをするようになった。1979年のMSGシリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。

タイガー服部

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明治大学在学時にレスリングで頭角を現し、1966年全日本レスリング選手権大会男子グレコローマン・バンタム級で優勝を果たした。翌年1967年にルーマニアで行われたレスリング世界選手権においてもバンタム級で優勝を果たした。

卒業後は松浪健四郎と渡米し、コーチ業をしながら選手活動を継続。全米選手権を制覇(詳細不明)したのをきっかけにプロレスラーにレスリングを教えるようになり、1970年代後半にフロリダにてヒロ・マツダの道場に入りハルク・ホーガンらを指導。また、同時期にフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)で活動していたマサ斎藤(明治大学の同僚)、高千穂明久、ミスター・ヒト、ミスター・サクラダ、キラー・カーンら日本人選手のマネージャーも務めた。この頃、ミッドサウス地区のプロモーターのビル・ワットにタイガー服部と命名される。

フロリダではレフェリーも担当し、1980年には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にNWAの公認レフェリーとして参加。アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ対ザ・シーク&グレート・メフィストなどの試合を裁いている。

シンの全日参戦期

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1981年7月に全日本プロレスに移籍し、再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。

輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの持ち味であるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。

フレッドブラッシー

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数々の伝説を遺したブラッシー。

1961年、ロサンゼルスでNAWA世界王者に認定される。1962年に力道山に敗れタイトルが日本に持ち込まれたと報道されたが、実際にはベルトの移動はなく、力道山は新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなる。4月にWWAタイトルに挑戦するため、日本プロレスに初来日。

このとき力道山、グレート東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは50 – 60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。

真壁刀義

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海外遠征から帰国後の2002年、KAIENTAI-DOJOの藤田ミノルと結託しヒールへ転身。しかし今度は棚橋弘至や柴田勝頼等が頭角をあらわした為、トップ戦線で活躍する第三世代と新闘魂三銃士(棚橋、柴田、中邑真輔)の間に埋もれてしまう。

そんな折、高山善廣とのタッグでプロレスリング・ノアの小橋建太、本田多聞が保持するGHCタッグ王座に挑戦。敗北を喫するも、奮闘を見せつけ自身の評価を上げる。その後は腰痛に苦しみ、なかなか結果を残せず。2004年8月、G1 CLIMAXに初出場を果たしたのを機に、リングネームを真壁刀義に変更。10月に成瀬昌由と共に下剋上宣言を行い、トップ層との争いを目論むも、頓挫。その後、成瀬がケガで欠場する間に蝶野正洋率いるブラック・ニュージャパンに加入。

2005年、G1公式リーグ戦2日目に対戦した中邑戦でアキレス腱断裂の重傷を負い長期欠場となった。

でんころ

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田園コロシアムについて。

この地は大正末期に慶應義塾大学野球部の専用球場として使用されていたが、1936年に田園テニスクラブのメインスタジアムとして改めてオープンした。テニスだけでなくコンサートをはじめとして、プロレスやボクシングなどのビッグマッチの会場としても利用された。

東急電鉄を利用して雪が運び込まれ、スキージャンプの興行が開催されたこともある。しかし施設の老朽化や同地の住宅街再開発計画、また江東区有明テニスの森公園にテニス場有明コロシアムがオープンした影響などもあり、1989年末に閉鎖された。

プロレスファンにとっては、アンドレVSハンセンなど非常に想い入れの深い会場だった。